起業家いしださんのインタビュー記事に力を貰った話
こんにちは。
今日は、みなさんもおそらく一度は目にされたであろう、いしださんの話題です。
僕は、いしださんがブログで炎上される頃、ちょうど仕事を辞めようとしていたところだったこともあり、いしださんのブログに対する外野からのコメントに多少なり不愉快さを覚えたことを覚えています。
(その結果を予想できていないとしても)善意で批判的なコメントを書いていらっしゃる方も多くいましたが、かなりの数の人が、それこそ下記のゆうきゆうさんの漫画のように、自分自身への不満や怒りをぶつけるサンドバックを見つけたかのようにコメントしていると感じました。
大学で学ぶという環境は違うと思った、
今の会社で働き続けると精神的におかしくなると思った、
今の社会の多数派とは意見が合わなかった。
そういっただけのことで、こうも批判されるのか、というのが僕の正直な感想でした。
上記の記事でも書きましたが、僕は、今の日本で最も取り組むべき課題のひとつは、
「他者の多様性に対する許容の精神」がほぼないことだと思います。
それどころか、「多様性を潰すこと」が娯楽として消費される風潮すらある。(最近の話題でいうと、性的マイノリティLGBTのものがありましたが…)
その点においてあまりにも社会成熟度が低いと思うのです。
他者の意見を簡単に否定できるということは、これまでの自分の生き方以外すべてを認めないということとほぼ同義で、あまりにも視野が狭いですし、自分が絶対正しいという浅慮な考えも透けて見えます。(たとえ本人がそこまで意識していなかったとしても。)
それに、人はみな何かしらの個性・多様性を持っているものです。
それら全てに寛容で、それぞれの個性を活かせる社会の方が、幸福度、文化成熟、創造性、すべてにおいて現状より優れてはいないでしょうか。
あなたも、好きなことをしているときに並外れた集中力や楽しさを感じたことはないでしょうか。
人間は本来、好きなことをして暮らしていいのです。
現在のように多様な生き方をできる世界であれば尚の事。
それなのに何故、独裁者でも看守でもない人々が、奴隷を叱責するように
「そんなことはお前には無理だ」
「非常識だな、そんなことではやっていけんぞ」
「牢(居づらいと本人が感じている環境)から出るな!」
というのでしょうか。
これらは、権力者が使いやすい労働力を確保するために行っていた奴隷(社畜)政策の延長戦上にあるものだと思います。自分で考えることを許さず、単純労働力として一生を過ごさせ、自分(権力者)の利益を貪る。
今はそんな時代ではないと思います。
私は、個人個人がどんな形態であれ、楽しく生きていることが巡り巡ってすべての人々の利益となると思います。
そのために使うべき言葉は、批判でしょうか、否定でしょうか。
多様性の肯定、相手の意見を受けとめた上での話し合い、が必要ではないでしょうか。
あなたは、価値観の多様性について、どう思われますでしょうか。