社会のセーフティネットの必要性。
更新が滞りすぎである。
今後はできるだけ定期的に更新していきたい所存…。
今回は、
この記事について書きたいと思います。
僕は最近、「生きづらい人、元気のない人、お金のない人が集える場をつくっていく」という目標のもと、生き方をシフトしたのですがそこにも共鳴する部分がありました。
上記の記事内容をぎゅっと要約するなら、
経済的に生活が不可能となった息子が、要介護の母と心中。
しかし息子は死にきれず殺人罪で裁判へ。
執行猶予3年を受ける。
裁判官に「お母さんのためにも幸せに生きていくよう努力してください」と声をかけられる。
2015年に記者が現在の息子さんの状況を調査。
自殺されていた。
というものです。
僕がこの記事を読んで思ったことは、2つあります。
1つは、裁判官の言葉は適切なのか。
2つ目は、この息子さんに社会復帰の道がどれだけあったのか。
ということです。
裁判官は、「お母さんのためにも幸せに生きていくよう努力してください」と言っています。
もちろん善意からの言葉ではあるんでしょうけど、私には「努力」という言葉に大きな違和感を覚えました。
仕事を頑張り続けて、その後介護のために休職、退職して、そこでも諦めず、きちんと生活保護の申請にも出かけて。
その当人に「努力してください」と声をかける社会は、どうなんでしょう。
現代社会って、この裁判官の方が多数派だと思います。
「心から同情します。頑張ってくださいね。(私はあなたのために特に何もしませんけど。)」
という考え方です。
けど、それって損じゃないですか?
誰しも、自分が「がんばろう」と思っている時に、周りから応援してもらえたり、理解してもらえたり、話を聞いてもらえたり、協力してもらえたりすると嬉しいんじゃないでしょうか。
自分が嬉しいと思うことを、他人にしませんか?
僕は、ひとりひとりの他人への態度が、社会を形作っていると思います。
なので、高橋まつりさん(電通事件の被害者、激務・ハラスメントで自死)のような人が大勢いる現代は、上記の裁判官のようなスタンスの集合体の結果なんだと思います。
苦しんでいる人がいるのはわかる。けど、それに対して自分は何もしない。
(もちろん、ここでは裁判官の方を引き合いに出しているだけで、実際は寄付や社会活動もされている方かもしれませんが。)
僕は、生きづらさを抱えている人、元気がない人、お金がない人、仕事がない人、そういった人々が生きにくい世の中を良いとは思いません。
人にはそれぞれ長所短所があり、元気な時もあればそうでないときもあります。
その事をことさらに否定しないでほしい。
否定は、やがて巡り巡って自らを苦しめることになると思います。
そして、今は、そういう社会になってしまっているのだと思います。
ネットのコミュニティ、繋がり方も発達して、価値観の近い人と繋がりやすくなりました。けど、それはまだ電脳世界において、です。
僕は、現実世界においても、他者のそれぞれの個性、違い、多様性を受け入れ、どのような立場に置かれていても、生きている人間として尊重される空間を広げていきたいと思っています。
そのために、まず、自分自身が居心地の良いコミュニティをネット上、現実上で出来るだけ多く作り、情報発信していきたいと思っています。
また、現実とネットの境を接続するために、ネットコミュニティと現実のコミュニティを繋げる存在になっていけたらいいな、と思っています。(具体的には、ブロガー牧師、などですが。)
今、やっと、生きる道筋を自分の想いに向けてシフトしたところなので、生き方について、宗教について、その時あったことを書いていきたいと思う所存です。
完全趣味ブログですが、読みやすい文章書けるように鍛錬していきます…!
人生とともにブログ再開、がんばりますー。